二酸化炭素の出ない恋

●消費のはなし
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わたしは真・三国無双3猛将伝張遼の台詞「我が命、そなたの明日に捧げよう」がとても好きで、13年前の夏に実家のリビングで号泣したのを今でも思い出します。
あの時確かにわたしのこころは張遼と共に生きていたので……
みんながFFやゼルダをやっている頃、あたしゃコーエーの策略にハマり死人に恋してたってわけですよ。

おかげさまで元来そのような性質なのかコーエーに賜った後天的な性癖なのかは不明ですが、異性からの好意に病的な嫌悪を感じてしまうという事に最近気付きました。
愛が云々の定義は割愛しますが、有機体としての愛情イコール性愛であると縫い付けられているのも原因だとは思っています。
わたしはこの性欲や独占欲、支配欲などあらゆるものに″消費″される事へ強い不快感を覚えるようで、どんなに円満な関係も不穏の気配を嗅ぎ付けると気持ちがマリアナ海溝のヘイダルゾーンに帰ってしまうのです。
不本意に他人に消費されるくらいなら、汚染された自意識の中で毒を吐いては吸ってをしている方が数億倍ましだと思えます。
人の中に勝手に上がり込んでさんざん踏み荒らしていくなんてとんでもない罪だと思う。人をコンテンツのように使うな。
わたし自身が長い間己を″コンテンツ″として扱ってきた反動なのかもしれません。角度を何度も確認しながら撮った自撮り、時間を掛けて添削したブログ、他人からの評価ばかり気にして存在したインターネットのわたし。
わたしは″わたしが許せる私″でなくてはいけなかったから、他人と言うよりは殆ど一人相撲のようだったけれど、それが恐ろしく滑稽で貧相で無様で可哀想。それは″わたしが許してあげられる私″ではないのでその事実が苦しいのかもしれない。
変化に怯えるわたしはママの子宮の中で羊水に包まれて寝ているのが1番なのかもしれないですね。

そう思えば同棲していた時も″適当な関係性″を気に入って過ごしていたのですが、4年目くらいに酔った同居人が「子どもは女の子と〜、何人欲しい〜」みたいな話をはじめその1ヶ月後くらいには夜逃げしたので、生理的に無理なのかもしれません。
一緒に過ごす事も″この人は私のことは大して好きじゃない″と言う前提がないと耐えられないようです。

そんな奴は一生桟敷で丸まってオナニーでもしてろって話だしそうするつもりなんですけどね(∵`)